社会

大川氏の魂が味わったという孤独は、無限とも感じられる無間地獄の孤独なのです。

大川氏の魂が味わったという孤独は、無限とも感じられる無間地獄の孤独なのです。

相対的な世界、つまり通常の私達の生活の中で、孤独というものが一つの大切な人生の要素になっているのはその通りだと思います。

しかし、それはあくまでも相対的な人間の世界の事です。

自我が確立してくる段階で、自他の分離感が強まり、また親との分離も伴うので、孤独の苦しみが伴うのは事実です。

それもまた人間の成長にとって必要なプロセスですが、それもまた相対的な世界でのことです。

これとは別に、道を共に求めることのできる人がいないなら、人と群れようとせずに

サイの角のように独りで歩めという釈尊の言葉もありますので、その時は孤独です。

しかし孤独は孤独感とはかならずしも一致しません。

孤独は一人あることですが、孤独感は大勢の中にいても感じます。

一人であっても無我なるとき、孤独感は無いのではないでしょうか。

逆に、大勢の友人の中にいて家族の愛に恵まれていても、自我が強烈な時、

「砂漠の中を一人歩むような孤独を感じます」と言われたクライアントもいらっしゃいました。

この状態では、孤独は確かに地獄の苦しみです。孤独には両面があるようです。

しかし、これらはいずれも相対的な世界における孤独です。

ところが、私がここで問題にしているのは、大川隆法氏の一千億年の孤独についてです。

「一千億年の孤独」とは、絶対者である大宇宙創造主・根本仏が宇宙を生み出すときの心境は「孤独であった」と語っているのです。

これはおかしいというのが私の論旨です。

孤独とは、多があって一を感じるときに、つまり相対の世界の中で起こる感情です。

相対がない、多がなく、比較の対象もない絶対の世界の中で、孤独という感情はありえないのではないでしょうか。

何故なら、根源にあって一なる存在ですから。

大川氏の魂が味わったという孤独は、無限とも感じられる無間地獄の孤独なのです。

大川氏が「自分は大宇宙を創造したときにずっと孤独を感じていた」というのは、無間地獄の孤独感を投影して語っていると思います。

ここで改めて、確認させていただきたいのですが、日常生活の中で孤独というものにプラスの意味がなく地獄的な感情でしかないと私が思っているわけではありません。

私は全ての感情は意味があって存在していると思っています。

バランスを崩して何かが過剰に傾いた場合は問題が生じますが、いかなる感情でも、感情それ自体は価値のないものはないと思います。

例えば、恐怖という通常は地獄的とされる感情でも、それがなければ肉体生命の維持が難しいといえますし、

神に対する恐怖は、通常「畏れ」もしくは「畏怖」という言葉で表現されますが、これは人間が傲慢にならないためには絶対に必要な感情ではないかと思います。

しかし、あくまでそれは相対の世界においてです。

絶対の世界においては、孤独感も恐怖心も存在しないと思うのです。
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